鯨と羊とおおいなる猫

草を食むように、文字をならべます

喉が渇く前に

私は普段、学校ではコンタクトレンズ、家では眼鏡をつけてすごしている。

そう、目が悪い。それも圧倒的に。

そして、それらを原因としてかどうか、すぐに目が疲れてしまうのだ。

そう、目が疲れた。それもひどく。

喉が渇く前に、目が乾いてしまう。

カスピ海の前に、さまよえる湖が乾いてしまったように。

いずれは潤いに飢えることとなるのは、どちらも同じだ。

 

「僕ら人間について、大地が万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に対抗するがためだ。」

目の乾きは大地のものなのだ。雄々しくふるえるこの大地の。

 

しかし、きょうは読書で目が疲れた。

「読書」について

「まずはじめ」について

読書。それがどのようなものかご存じだろうか?

本を手に取り、文字を追う。あまたの文節を超えて、ひとつの考えと会いまみえる。

ある考えは黄金であったり、ある考えはクズであったりする。

 

私はその読書を、みっつの段階にわけて話したい。

それは「本」・「趣味」・「知識」。このみっつだ。

 

わたしは小分けにしないと話せない男なのだ。

 

「本」について

本とは何か?

紙の束であり、文章があるものであり(ときには絵が)感動があるもの。である。

 

ホントニソウダロウカ・・・?

さて、それでは私の「本」について語ろうと思う。

私の本はとてもかんたんなものだ。

本とは、知識であり、現実に手になじむものであり、古いものだ。

そしてときに紙のにおいがするし、リュックにいれるとかさばるし、重いものである。

これが私の本だ。

つまり、電子書籍や、最新刊は本ではない。

「本当にすまないと思っている。」

 

「読書」について

それは本を読むこと。と一般には言われている。が、少し足りない。

読むということは、「そこ」に書かれてあるものを「自分」で「調理」するものだ。

現世における、ある天才が本に対して語ったことと、同じことを意識的に考えるのは、

違うことだ。

それは思想の殺人だ。大殺人鬼だ。

私は違う。私は千夜一夜にわたって「調理」を続けてきた。

つまり、一流調理人なのだ。五つ星だ。

 

あとひとつ忘れていた。数少ない、私が嫌いなことがある。

それは読書を「崇高な趣味だ。」と考えることだ。

私が読書をしていることを知って、私を再評価する。

こういう人は本当救いようがない。

「Jesus!」

 

「知識」について

ネットには無限とも考えられるものが転がっている。

それは知識だろうか?

「いいや、そんなことは断じてない。」

ネットというのは砂金がとれる川のようなものだ。

クズか、ゴミか、クズか、金である。

 

対して、本にあるものはなにだろうか?

それは知識だろうか?

「ああ。ある意味そうだ。あくまでも、ある意味では。」

本にある考えというものは大きくふたつにわけられる。

人間の「思考」と、現実における「科学」だ。

本に書かれた「科学」というものも、ネット同様ちがっているときもある。

だが、本には著者がおり、発行者がいる。つまり殴れるのだ。

これがすばらしいのだ。本とは人を殴れるものなのだ。

 

もうひとつ「思考」がある。

これについてはかんたんだ。

感動をして、それを我が物とする。

もしくは、

ゴミ箱に投げ入れて、火をつける。

とてもかんたんだ。

 

p.s.

今日、チョコレートの世界史という本を読了しました。良かったです。

公園の砂場ぐらいの良さでした。

「文章を書く」について

初めました

どうも。始めました。ブログというものを、です。

これから毎日30分を期限として、「なにか」について書き物をしたいと思います。

ものを書くということを、これまでしてこなかった私ですので、いわゆる「薬にも毒にもならない」ものになってしまいそうですが、どうぞよしなに、よしなに。

 

「文章を書く」

さて、今回は「文章を書く」ということについて、ですね。

つまり、いま書いてあるこれについてです。

私は文章について、「思考の具現化」や、「歴史」、「芸術」うんぬんの考えがあります。なぜ、それらのように考えるのか、それを考えつつ書き起こしていきます。

 

ところで、私は勘が良い人です。(勘は良いものではなく、鋭いものかもしれません)

ですから薄々嫌な予感というもの、それを感じ始めています。

「つまり、何が言いたいんだ?」

惨憺なるものができあがりそう。ということを言いたいのです。

(書きたいのです。)

 

「思考の具現化」・「歴史」

リンゴがひとつあります。

とても赤く、おいしそうです。おいしそうですよね?

そして、私がそれを食べます。もしくは、あなたが食べます。

実はそのリンゴは、いわゆる辺境の地で獲られたものでした。

とても硬く、とてもすっぱいです。

「ジーザス!」

 

上記は私がシャワーと格闘しつつ、考えたものです。

私は(もしかしたら、すべての人は)毎日多くのことを考えています。

それは大発明であったり、くだらないことであったり、晩御飯のメニューであったり、

つまり、種々なものです。

しかしその思考は悉く死んでいきます。そりゃあもう片端から。

思考を記すこと。それにより思考死んだのちに「歴史」となります。

「歴史」ということはつまり、いつかそこにあって、手にとれたもの。になります。

ですので、文章というのは「思考の具現化」であるわけです。

 

本当にそうなのか?それはわかりません。

だって、「歴史」はあったことしか教えてくれないものですから。

 

「芸術」

いま、ジャズを聴きながらこれを書いています。

それはAll bluesであったり、Autume leavesであったりします。

これらは芸術です。

「なぜ?」

素晴らしい。と感じるもの。であり、文化的なもの。で、あるからです。

(もしかしたらある思考Aにそう思わさせられている。のかもしれませんが)

その点では文を書くことも同じです。

素晴らしい。と感じるもの。であり、文化的なもの。で、あります。

 

ただ、私がこれら定義より大切に考えるのは、

「パッとみて、いいな!」を重視するべき。ということです。

 

「おわりに」

30分経ちました。考えていたよりも、ひどく大変なものですね。これは。

でも、興味深いもの。で、あったことは確かです。

あ、校正や構成はほんとんど考えていないので、どうこうすることも、できません。

では。