鯨と羊とおおいなる猫

草を食むように、文字をならべます

皐月とメランコリア

あけましておめでとうございます。ゴールデンウイークが。

この時期に話題にのぼるもののひとつに五月病なるものがあります。

今日はそれを英訳して、格好のいいタイトルをかかげよう。そう考えていた次第であったのですが。

よくよく考えてみれば外国にゴールデンウイークなるものはありません。ゴールデンウイークは英語のくせに。

そう。海をこえた国々には憲法も、緑も、こどももどれも、存在しないのです。

 

ですが、すこしネットを漁ったところ、"Jenuary blues"なるものがありました。

なるほど、なるほど。クリスマスからニューイヤーのイベントに由来するようです。

バンコクあれど、ひとが思うことはそんなに変わらない。

 

なるほどヴェルレーヌ太宰治がいるわけだ。

歴史的大敗。あるいは

本日討ち取った模試と、もがれた十字架について。

世界史はやんごとない量復習をしたので、もちろん点数もよかったです。

100点の満点として考えると、8割、あるいは9割ほどとれていました。とてもいいです。

 

しかし、その血の代償は大きなものでした。

そう「国語」。長年私の統治下におり、血も濃い彼が蜂起したのです。

 

「王侯将相いずくんぞ種あらんや!」猛々しい叫び。

 

とくにその”日本語パルチザン”を率いたのが古典でした。昔からのトラブルメーカーです。ですので、これからは古典に力をいれていく所存です。

 

盛者必衰。おごれる私は久しからず。

 

 

今朝、ミスタードーナツでコーヒーとドーナツを頼んで食べました。

そのとき世界史をしていました。勉強を控えよとの布告があることに気が付かずに。

「本当に申し訳ない」

 

そういえばシン・ゴジラを見ました。とてもいいですね、あれ。

ア デイ アフター トゥモロー

今日の相棒はWILKINSONの炭酸水だ。強炭酸ゆえ、かなりブラックでヘビーなジョークをかましてくるが、なんであろうと良い相棒だ。

 

明後日に試験がある。といっても、学校と直接関係のあるものではない。いわゆる、学生皆須らく請けるべし。たるものである。

それに関連づいて、私は世界史の勉強に追われている。いまもそうだ。車間距離はおよそ1ブロックにまでつめられてしまった。スピードを上げて、次のブロックで右折しなければならないのだ。

 

ア デイ アフター トゥモロー

そんな近未来がどうであるか。それがわからない人間の科学力はまだまだだ。

老人と改行と海と修辞

老人と海。またはThe old man and the seaをご存じだろうか。

筆者はアーネスト・ヘミングウェイ。Earnestを日本語に直すと”まじめな”という意味を表す。つまり、彼はまじめなアメリカ小説家なのだ。

彼のスペリングはErnest Hemingwayだから関係ないのかもしれない。もしかしたら。

 

私の部屋は老人と海。またはThe old man and the seaをすべてで二冊保管している。赤外線で守られているわけではないが、すくなくとも紫外線からは守っている。

それら二冊のうちひとつが老人と海。もうひとつがThe old man and the seaだ。とどのつまり日本語に訳された加工済みのものがひとつと、現地直送の生ものがひとつというわけだ。

 

なぜ二冊もあるのか?

 

それは私がオーガニックの信者だからではない。ある日、イベリア半島のように背中をまげて本屋でうろついていたときだ。そこに英語本コーナーなるもの、生鮮なものを見つけたのだ。たちまち背中をイタリアのようにしゃんと伸ばして私は棚の本を漁り始めた。そこにはハリーポッター、ポオ、HARUKIMURAKAMIなどのそうそうたるものが並んでいたが、とくに私を引き付けたのが彼、アーネスト・ヘミングウェイだったのだ。少々値は張ったが、それがうれしきもの。であったことは間違いない。

 

彼の作品は素晴らしい。読むことをすすめる。

彼は未知の氷山をわれわれに示してくれる。

 

だが、ひとつ注意すべきことがある。とても重大なことだ。

それは「英語が読めないのに、英語で書かれた本を買うべきでない。」ということだ。

人生の教訓として、心にとどめておいてほしいものだ。

「コーヒー」について

コーヒー、珈琲、coffee...

あなたは「こうひい」なるものをわかっているだろうか?

 

あるものは悪魔の水だと罵り、あるものは天上の飲み物だと豪語する。

数学者は珈琲を数式に変える機械。と誰かがのたまっていた

 

わたしは過去に「珈琲が廻り、世界史が廻る」という本を読んだことがある。

その名の通り、珈琲と、それにまつわる世界史が書かれたものだ。

普段、私生活のうちでコーヒーを愛する私にとっては、いたく趣があるものだった。

 

「とどのつまり、おまえは何が言いたいんだ?」

 

その本をお勧めするということと、珈琲はブラックがベストだということだ。

 

閑話休題、本題に戻ろう。もとい、本題を示そう。

「coffee」が如何なるものか。ということだ。

「それは三つの要素があるんだよ。」と、フランス人をかぶった口調で続けよう。

 

「甘美」

コーヒーは実に甘美なものだ。

カップに並々と注がれたそれは、黒い輝きをまといつつ、親身に語り掛ける暖かさを擁している。つよき者であり、後見人でもあるのだ。

 

その日、初めて口にするコーヒーはいつもなめらかである。

つまり、オイシイのだ。つよく、とんでもなく、輝かしく!

おのれに身をまかせろとばかりの主張である。

ゆえにわれは嬉しいのだ。

 

「選択」

然れども、彼はそんなに甘くない。真っ黒だ。身体も精神もありかたも。

日々のなかで確かに彼は活力を与えてくれる。

しかし諮問がある。彼と私の間には。

 

ある青年に女神は語りかけた。

「あなたが落としたのはこの金の斧か、それとも鉄の斧か。」

青年は考える。

新たであり、危険な香りがする力を求めるか、

普遍であり、親しんだ弱さに落ち着くか。

 

これが珈琲だ。彼もふたつを提示する。

さらなる珈琲で、力、酔いを得て、精神を削るか、否か。

 

やれやれ、とんでもない選択肢だ。

そういって僕はうらぶれたティーカップを取り出した。

 

「友」

さいごに、コーヒーは友である。

もちろん、私からの一方向な考え方でなく、双方向の関係だ。

今日も彼は私のバアスデイを祝ってくれた。

「誕生日おめでとう。

 

ところで、今日はどれほど飲むんだい?」

 

 

そういうことで、一年、カフェイン中毒を患って生きていく。

まったく。やはりアイツはいやなやつだ。