鯨と羊とおおいなる猫

草を食むように、文字をならべます

「読書」について

「まずはじめ」について

読書。それがどのようなものかご存じだろうか?

本を手に取り、文字を追う。あまたの文節を超えて、ひとつの考えと会いまみえる。

ある考えは黄金であったり、ある考えはクズであったりする。

 

私はその読書を、みっつの段階にわけて話したい。

それは「本」・「趣味」・「知識」。このみっつだ。

 

わたしは小分けにしないと話せない男なのだ。

 

「本」について

本とは何か?

紙の束であり、文章があるものであり(ときには絵が)感動があるもの。である。

 

ホントニソウダロウカ・・・?

さて、それでは私の「本」について語ろうと思う。

私の本はとてもかんたんなものだ。

本とは、知識であり、現実に手になじむものであり、古いものだ。

そしてときに紙のにおいがするし、リュックにいれるとかさばるし、重いものである。

これが私の本だ。

つまり、電子書籍や、最新刊は本ではない。

「本当にすまないと思っている。」

 

「読書」について

それは本を読むこと。と一般には言われている。が、少し足りない。

読むということは、「そこ」に書かれてあるものを「自分」で「調理」するものだ。

現世における、ある天才が本に対して語ったことと、同じことを意識的に考えるのは、

違うことだ。

それは思想の殺人だ。大殺人鬼だ。

私は違う。私は千夜一夜にわたって「調理」を続けてきた。

つまり、一流調理人なのだ。五つ星だ。

 

あとひとつ忘れていた。数少ない、私が嫌いなことがある。

それは読書を「崇高な趣味だ。」と考えることだ。

私が読書をしていることを知って、私を再評価する。

こういう人は本当救いようがない。

「Jesus!」

 

「知識」について

ネットには無限とも考えられるものが転がっている。

それは知識だろうか?

「いいや、そんなことは断じてない。」

ネットというのは砂金がとれる川のようなものだ。

クズか、ゴミか、クズか、金である。

 

対して、本にあるものはなにだろうか?

それは知識だろうか?

「ああ。ある意味そうだ。あくまでも、ある意味では。」

本にある考えというものは大きくふたつにわけられる。

人間の「思考」と、現実における「科学」だ。

本に書かれた「科学」というものも、ネット同様ちがっているときもある。

だが、本には著者がおり、発行者がいる。つまり殴れるのだ。

これがすばらしいのだ。本とは人を殴れるものなのだ。

 

もうひとつ「思考」がある。

これについてはかんたんだ。

感動をして、それを我が物とする。

もしくは、

ゴミ箱に投げ入れて、火をつける。

とてもかんたんだ。

 

p.s.

今日、チョコレートの世界史という本を読了しました。良かったです。

公園の砂場ぐらいの良さでした。