「コーヒー」について
コーヒー、珈琲、coffee...
あなたは「こうひい」なるものをわかっているだろうか?
あるものは悪魔の水だと罵り、あるものは天上の飲み物だと豪語する。
数学者は珈琲を数式に変える機械。と誰かがのたまっていた。
わたしは過去に「珈琲が廻り、世界史が廻る」という本を読んだことがある。
その名の通り、珈琲と、それにまつわる世界史が書かれたものだ。
普段、私生活のうちでコーヒーを愛する私にとっては、いたく趣があるものだった。
「とどのつまり、おまえは何が言いたいんだ?」
その本をお勧めするということと、珈琲はブラックがベストだということだ。
閑話休題、本題に戻ろう。もとい、本題を示そう。
「coffee」が如何なるものか。ということだ。
「それは三つの要素があるんだよ。」と、フランス人をかぶった口調で続けよう。
「甘美」
コーヒーは実に甘美なものだ。
カップに並々と注がれたそれは、黒い輝きをまといつつ、親身に語り掛ける暖かさを擁している。つよき者であり、後見人でもあるのだ。
その日、初めて口にするコーヒーはいつもなめらかである。
つまり、オイシイのだ。つよく、とんでもなく、輝かしく!
おのれに身をまかせろとばかりの主張である。
ゆえにわれは嬉しいのだ。
「選択」
然れども、彼はそんなに甘くない。真っ黒だ。身体も精神もありかたも。
日々のなかで確かに彼は活力を与えてくれる。
しかし諮問がある。彼と私の間には。
ある青年に女神は語りかけた。
「あなたが落としたのはこの金の斧か、それとも鉄の斧か。」
青年は考える。
新たであり、危険な香りがする力を求めるか、
普遍であり、親しんだ弱さに落ち着くか。
これが珈琲だ。彼もふたつを提示する。
さらなる珈琲で、力、酔いを得て、精神を削るか、否か。
やれやれ、とんでもない選択肢だ。
そういって僕はうらぶれたティーカップを取り出した。
「友」
さいごに、コーヒーは友である。
もちろん、私からの一方向な考え方でなく、双方向の関係だ。
今日も彼は私のバアスデイを祝ってくれた。
「誕生日おめでとう。
ところで、今日はどれほど飲むんだい?」
そういうことで、一年、カフェイン中毒を患って生きていく。
まったく。やはりアイツはいやなやつだ。