鯨と羊とおおいなる猫

草を食むように、文字をならべます

ア デイ アフター トゥモロー

今日の相棒はWILKINSONの炭酸水だ。強炭酸ゆえ、かなりブラックでヘビーなジョークをかましてくるが、なんであろうと良い相棒だ。

 

明後日に試験がある。といっても、学校と直接関係のあるものではない。いわゆる、学生皆須らく請けるべし。たるものである。

それに関連づいて、私は世界史の勉強に追われている。いまもそうだ。車間距離はおよそ1ブロックにまでつめられてしまった。スピードを上げて、次のブロックで右折しなければならないのだ。

 

ア デイ アフター トゥモロー

そんな近未来がどうであるか。それがわからない人間の科学力はまだまだだ。

老人と改行と海と修辞

老人と海。またはThe old man and the seaをご存じだろうか。

筆者はアーネスト・ヘミングウェイ。Earnestを日本語に直すと”まじめな”という意味を表す。つまり、彼はまじめなアメリカ小説家なのだ。

彼のスペリングはErnest Hemingwayだから関係ないのかもしれない。もしかしたら。

 

私の部屋は老人と海。またはThe old man and the seaをすべてで二冊保管している。赤外線で守られているわけではないが、すくなくとも紫外線からは守っている。

それら二冊のうちひとつが老人と海。もうひとつがThe old man and the seaだ。とどのつまり日本語に訳された加工済みのものがひとつと、現地直送の生ものがひとつというわけだ。

 

なぜ二冊もあるのか?

 

それは私がオーガニックの信者だからではない。ある日、イベリア半島のように背中をまげて本屋でうろついていたときだ。そこに英語本コーナーなるもの、生鮮なものを見つけたのだ。たちまち背中をイタリアのようにしゃんと伸ばして私は棚の本を漁り始めた。そこにはハリーポッター、ポオ、HARUKIMURAKAMIなどのそうそうたるものが並んでいたが、とくに私を引き付けたのが彼、アーネスト・ヘミングウェイだったのだ。少々値は張ったが、それがうれしきもの。であったことは間違いない。

 

彼の作品は素晴らしい。読むことをすすめる。

彼は未知の氷山をわれわれに示してくれる。

 

だが、ひとつ注意すべきことがある。とても重大なことだ。

それは「英語が読めないのに、英語で書かれた本を買うべきでない。」ということだ。

人生の教訓として、心にとどめておいてほしいものだ。

「コーヒー」について

コーヒー、珈琲、coffee...

あなたは「こうひい」なるものをわかっているだろうか?

 

あるものは悪魔の水だと罵り、あるものは天上の飲み物だと豪語する。

数学者は珈琲を数式に変える機械。と誰かがのたまっていた

 

わたしは過去に「珈琲が廻り、世界史が廻る」という本を読んだことがある。

その名の通り、珈琲と、それにまつわる世界史が書かれたものだ。

普段、私生活のうちでコーヒーを愛する私にとっては、いたく趣があるものだった。

 

「とどのつまり、おまえは何が言いたいんだ?」

 

その本をお勧めするということと、珈琲はブラックがベストだということだ。

 

閑話休題、本題に戻ろう。もとい、本題を示そう。

「coffee」が如何なるものか。ということだ。

「それは三つの要素があるんだよ。」と、フランス人をかぶった口調で続けよう。

 

「甘美」

コーヒーは実に甘美なものだ。

カップに並々と注がれたそれは、黒い輝きをまといつつ、親身に語り掛ける暖かさを擁している。つよき者であり、後見人でもあるのだ。

 

その日、初めて口にするコーヒーはいつもなめらかである。

つまり、オイシイのだ。つよく、とんでもなく、輝かしく!

おのれに身をまかせろとばかりの主張である。

ゆえにわれは嬉しいのだ。

 

「選択」

然れども、彼はそんなに甘くない。真っ黒だ。身体も精神もありかたも。

日々のなかで確かに彼は活力を与えてくれる。

しかし諮問がある。彼と私の間には。

 

ある青年に女神は語りかけた。

「あなたが落としたのはこの金の斧か、それとも鉄の斧か。」

青年は考える。

新たであり、危険な香りがする力を求めるか、

普遍であり、親しんだ弱さに落ち着くか。

 

これが珈琲だ。彼もふたつを提示する。

さらなる珈琲で、力、酔いを得て、精神を削るか、否か。

 

やれやれ、とんでもない選択肢だ。

そういって僕はうらぶれたティーカップを取り出した。

 

「友」

さいごに、コーヒーは友である。

もちろん、私からの一方向な考え方でなく、双方向の関係だ。

今日も彼は私のバアスデイを祝ってくれた。

「誕生日おめでとう。

 

ところで、今日はどれほど飲むんだい?」

 

 

そういうことで、一年、カフェイン中毒を患って生きていく。

まったく。やはりアイツはいやなやつだ。

喉が渇く前に

私は普段、学校ではコンタクトレンズ、家では眼鏡をつけてすごしている。

そう、目が悪い。それも圧倒的に。

そして、それらを原因としてかどうか、すぐに目が疲れてしまうのだ。

そう、目が疲れた。それもひどく。

喉が渇く前に、目が乾いてしまう。

カスピ海の前に、さまよえる湖が乾いてしまったように。

いずれは潤いに飢えることとなるのは、どちらも同じだ。

 

「僕ら人間について、大地が万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に対抗するがためだ。」

目の乾きは大地のものなのだ。雄々しくふるえるこの大地の。

 

しかし、きょうは読書で目が疲れた。

「読書」について

「まずはじめ」について

読書。それがどのようなものかご存じだろうか?

本を手に取り、文字を追う。あまたの文節を超えて、ひとつの考えと会いまみえる。

ある考えは黄金であったり、ある考えはクズであったりする。

 

私はその読書を、みっつの段階にわけて話したい。

それは「本」・「趣味」・「知識」。このみっつだ。

 

わたしは小分けにしないと話せない男なのだ。

 

「本」について

本とは何か?

紙の束であり、文章があるものであり(ときには絵が)感動があるもの。である。

 

ホントニソウダロウカ・・・?

さて、それでは私の「本」について語ろうと思う。

私の本はとてもかんたんなものだ。

本とは、知識であり、現実に手になじむものであり、古いものだ。

そしてときに紙のにおいがするし、リュックにいれるとかさばるし、重いものである。

これが私の本だ。

つまり、電子書籍や、最新刊は本ではない。

「本当にすまないと思っている。」

 

「読書」について

それは本を読むこと。と一般には言われている。が、少し足りない。

読むということは、「そこ」に書かれてあるものを「自分」で「調理」するものだ。

現世における、ある天才が本に対して語ったことと、同じことを意識的に考えるのは、

違うことだ。

それは思想の殺人だ。大殺人鬼だ。

私は違う。私は千夜一夜にわたって「調理」を続けてきた。

つまり、一流調理人なのだ。五つ星だ。

 

あとひとつ忘れていた。数少ない、私が嫌いなことがある。

それは読書を「崇高な趣味だ。」と考えることだ。

私が読書をしていることを知って、私を再評価する。

こういう人は本当救いようがない。

「Jesus!」

 

「知識」について

ネットには無限とも考えられるものが転がっている。

それは知識だろうか?

「いいや、そんなことは断じてない。」

ネットというのは砂金がとれる川のようなものだ。

クズか、ゴミか、クズか、金である。

 

対して、本にあるものはなにだろうか?

それは知識だろうか?

「ああ。ある意味そうだ。あくまでも、ある意味では。」

本にある考えというものは大きくふたつにわけられる。

人間の「思考」と、現実における「科学」だ。

本に書かれた「科学」というものも、ネット同様ちがっているときもある。

だが、本には著者がおり、発行者がいる。つまり殴れるのだ。

これがすばらしいのだ。本とは人を殴れるものなのだ。

 

もうひとつ「思考」がある。

これについてはかんたんだ。

感動をして、それを我が物とする。

もしくは、

ゴミ箱に投げ入れて、火をつける。

とてもかんたんだ。

 

p.s.

今日、チョコレートの世界史という本を読了しました。良かったです。

公園の砂場ぐらいの良さでした。

「文章を書く」について

初めました

どうも。始めました。ブログというものを、です。

これから毎日30分を期限として、「なにか」について書き物をしたいと思います。

ものを書くということを、これまでしてこなかった私ですので、いわゆる「薬にも毒にもならない」ものになってしまいそうですが、どうぞよしなに、よしなに。

 

「文章を書く」

さて、今回は「文章を書く」ということについて、ですね。

つまり、いま書いてあるこれについてです。

私は文章について、「思考の具現化」や、「歴史」、「芸術」うんぬんの考えがあります。なぜ、それらのように考えるのか、それを考えつつ書き起こしていきます。

 

ところで、私は勘が良い人です。(勘は良いものではなく、鋭いものかもしれません)

ですから薄々嫌な予感というもの、それを感じ始めています。

「つまり、何が言いたいんだ?」

惨憺なるものができあがりそう。ということを言いたいのです。

(書きたいのです。)

 

「思考の具現化」・「歴史」

リンゴがひとつあります。

とても赤く、おいしそうです。おいしそうですよね?

そして、私がそれを食べます。もしくは、あなたが食べます。

実はそのリンゴは、いわゆる辺境の地で獲られたものでした。

とても硬く、とてもすっぱいです。

「ジーザス!」

 

上記は私がシャワーと格闘しつつ、考えたものです。

私は(もしかしたら、すべての人は)毎日多くのことを考えています。

それは大発明であったり、くだらないことであったり、晩御飯のメニューであったり、

つまり、種々なものです。

しかしその思考は悉く死んでいきます。そりゃあもう片端から。

思考を記すこと。それにより思考死んだのちに「歴史」となります。

「歴史」ということはつまり、いつかそこにあって、手にとれたもの。になります。

ですので、文章というのは「思考の具現化」であるわけです。

 

本当にそうなのか?それはわかりません。

だって、「歴史」はあったことしか教えてくれないものですから。

 

「芸術」

いま、ジャズを聴きながらこれを書いています。

それはAll bluesであったり、Autume leavesであったりします。

これらは芸術です。

「なぜ?」

素晴らしい。と感じるもの。であり、文化的なもの。で、あるからです。

(もしかしたらある思考Aにそう思わさせられている。のかもしれませんが)

その点では文を書くことも同じです。

素晴らしい。と感じるもの。であり、文化的なもの。で、あります。

 

ただ、私がこれら定義より大切に考えるのは、

「パッとみて、いいな!」を重視するべき。ということです。

 

「おわりに」

30分経ちました。考えていたよりも、ひどく大変なものですね。これは。

でも、興味深いもの。で、あったことは確かです。

あ、校正や構成はほんとんど考えていないので、どうこうすることも、できません。

では。